過去のお話 派遣切りの時代にあった事
僕が人材関係の仕事をしている時、いわゆるリーマンショックがありました。
ご記憶の方もおられると思いますが、世の中では派遣切りや年越し派遣村が社会問題になりました。
当時の僕は製造派遣を担当していたので、もろにその中で仕事をしていました。
気心の知れた派遣社員さんの中には、夏に父親になったばかりの人もいて、年末には契約満了通知をしないといけないケースなどがいっぱい発生しました。
また当時は、シャープの液晶工場が躍進しており、その関係の取引も多かったです。が、リーマンショックによって、向こう6カ月間のシャープ向け受注が皆無で派遣社員さんにやってもらう仕事が何もない、と言うようなこともいっぱい起こりました。
シャープの堺工場は当時世界最先端で大変注目されていました。新日鉄の跡地に3回に分けて大規模工場建設が予定されていたのですが、第二期工事の途中にリーマンショックがあったものですから、堺工場の奥のほうは見渡す限りの空き地のまんまです。
また、シャープの誘致にあたっては、当時の太田大阪府知事も尽力されました。亀山や天理のシャープ工場と便利に輸送ができるよう、堺と松原を環状線を経由せずに最短ルートできるよう阪神高速大和川線を開通する条件もできました。ただ地下ルートの難工事であったため、開通までにシャープが存続しているかわからないもんだと揶揄していたものです。10年後の未だに未開通ですが、シャープは身売りされてしまいましたが。
そんな中で政治の世界も、自民党から民主党に政権交代がありました。
民主党は労働組合が基盤の弱者保護の傾向のある政党だったので、派遣制度改革が始まりました。
当時の派遣法は、専門26業務については期間無制限、その他自由化職種ついては3年制限でした。ただその線引きが明確化されていないため、何でもかんでも専門業務と称して無期限で派遣就労させていると指摘され(偽装専門職派遣)、多くの派遣会社に業務改善命令が頻発されました。
その結果、庶務業務を仕事から取れないと言う理由で、多くの派遣社員の契約が満了になりました。歴史的な不景気の下、行政見解が変わって雇用が終了していく事態が頻発したわけです。
そんなこんなで当時の有効求人倍率は0.4倍まで下がってしまいました。
0.4倍と言うと、どこにも求人なんてないと言う状態になります。あるとすれば医師や看護師など、景気に関係なく常に人手不足の職種ばかりです。時給850円の工場作業にエンジニアの方の応募が殺到するなどしました。
今の有効求人倍率1.6倍からは考えられないような仕事のない時代でした。あれから雇用は急回復して今に至っているわけですが、あのような時代はもう戻ってほしくないと切に願います。